2007年05月30日
1944年
この年の4月にソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功した。一方で、すでにイタリアへの上陸を成功させたものの、フランスへの再上陸による西部戦線の構築をきっかけとした本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合国軍は、この年の6月6日に、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、ドイツ軍に占領されている西ヨーロッパ戦線の中核である北フランスのノルマンディー地方に対して、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を行い、多数の死傷者を出す激戦の末見事に上陸を成功させた結果、1940年6月のダンケルクからの撤退以降約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。
連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放された。なお、この際にドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物だけでなく、パリの市街地そのものが大きな被害を受けることはなかった。その後にドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。
ノルマンディー上陸作戦と同時期に、東部戦線においてソビエト連邦軍によりバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、勢いをつけたソビエト連邦軍はドイツとの国境付近まで迫った。敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺して連合軍との講和を企む声が日ごとに増し、7月20日には、予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵らを中心にした反乱グループによるヒトラー爆殺計画が実行されたが失敗した。度重なる暗殺計画の発覚に疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約4000人を処刑させた他、アフリカ戦線の指揮官で陸軍元帥でもあるエルヴィン・ロンメルを暗殺グループの一員と疑い自殺に追い込んだ。[23]
この後、ドイツ軍は、ベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を舞台としたバルジの戦いで西部戦線において最後の反攻を試みる。ドイツ軍は、連合国軍に比べ圧倒的に少ない戦力ながらも、綿密に計画された反攻計画が功を奏し、突然の反撃にパニックに陥った連合軍を一時的に押し戻した。しかし、その後体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされるなど、ドイツ軍は東西から攻勢を受け、次第に撤退を余儀なくされる。
10月9日、スターリンとチャーチルは、バルカンにおける軍事進駐の領域分割について協議した。両者間では、ルーマニアにおいてソ連が90%、ブルガリアにおいてソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々とした
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